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by matsumo54
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カテゴリ:A( 5 )
---a-5---もの足りない風景
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世の中、もの足りないと感じる風景がいくつもある気がする。
写真でもなんとなくもの足りないけど、実際にその場にいると、もの足りない感がすさまじい。

もの足りないってのはなんか不安な感じで、「え、いいの、これだけでいいの?」みたいな心配をしてしまう感じ。

でも、そんなおせっかいな心配をしても環境として成立してるもんは成立してるわけでしょうがないっちゃしょうがない。


話はやたらと逸れるけど、都市論はもはや東京とか大阪とかいう人口過剰都市についてだけに語られるべきではないと思う。
もっと例えば、こういうもの足りない風景なんかを産み出す仕組みを物理的や地理的に論じるべきだと思う。
そこにはおそらく様々な複雑怪奇なネットワークが見えてくると思う。近くて太い繋がりとか、遠くて細い繋がりとか、遠くて太い繋がりとか、いろいろあると思う。そのネットワークこそがグローバルな現代での都市という言葉に一番しっくりくる気がする。都市はもはや場所ではないんじゃないかと。どっちかというと状況じゃないかと。
だからいわゆる田舎だって現代では都市的だと思う。それはインターネットだったり車だったりで相方向的に何かと繋がっているから。田舎人はそういうのをちゃんと意識しないと、卑屈になってしまうばっかりだ!
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by matsumo54 | 2008-06-21 06:26 | A
---a-4---建築することについて2
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最近建築って何が楽しいのかなーってよくわからなくなるときがあるから、自分の考えを少し分析してみたいと思います。




僕が建築をするなかで面白いなと考えているのは、自分が得た、いろいろな知識とか考えてることを、フィードバックさせてモノとして1つに統合することができること。


これはモノづくり全てに言えることではあるのかも。



どういうことかというと、例えば、建築であれば、使いやすくて丈夫で気持ちよくて…とかいろいろ達成するべきことはあるけど、その他にも、経済のこととか、哲学のこととか、社会のこととか、人生のこととか、環境のこととか、かっこいいかどうかとか、そういうのを意識しつつ設計するのは自由だということ。

そして僕は最近、その辺のある意味では付加的な部分にかなりワクワクしたりします。完全に僕のモチベーションの問題だけど。



あと、なんというか、ただの物知りになりたくないって意識が常にあるからだと思う。知識はひけらかすためじゃなくて、使うために持っていたいなと思ってる。
まあ、あくまでこれも僕のモチベーション的な問題です。ひたすら知識を蓄えたり探求する人ってのはすごく重要だと思います。




そういうことを考えていくと、建築じゃなくてもいいわけです。
けど今は、僕は他の分野より、建築の知識を多く持っているので、建築をやるのが一番楽しいような気がします。
同時に、他分野の知識や技術を持ってる人と一緒の土俵で仕事をやることができたらすごく楽しいと思う。し、それがすごく大切なことのような気がします。


そういうわけで、僕は、建築のプロフェッショナルとして他分野のプロフェッショナルと胸を張って肩を並べれるように、知識と技術を貪欲に手に入れていきたいなと改めて思いました。

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by matsumo54 | 2008-02-26 06:31 | A
---a-3---建築することについて
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家の前のバス停。高校生のときは毎朝7:00のバスをここで待ってた。

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中学校。裏庭の窮屈な空間がお気に入りだった。


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上の写真の向こう側から。今見てみると、西沢大良的な屋根の光がキレイ。笑


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非常階段。一階と二階の間の踊り場がちょうどいい高さで好きだった。


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卒業設計で、誰かの街を完全に解体してみて思ったこと。誰かにとっての思い出の風景を消し去ってしまうのは残酷なことの1つだなということ。

ただ、残酷だから即悪いという安易な考えはしたくない。だからといってむやみやたらに残酷なのが正しいわけではないけど。


現代社会で建築を行うことは、何らかの残酷さを引き受けることである。ということがわかった。建築をすることはそういう自分の残酷さと常に向き合う行為だと思う。

そして近代以降の(あるいはそれ以前も?)建築家は、建築という残酷な行為に、それに見合う価値をどこからか引っ張りだしてくることで、自分の救済をする。たとえ元を正せば根拠の無い意味であっても、そうでもしなければ、たぶん発狂すると思う。


そういうことを考えたが、今すぐどうしようという考えは全く見当たらない。というか、どうこうすべきなのかすらわからない。

ただ、建築をこれから続けるなら、自分を救済するためのボキャブラリーをとりあえず手に入れなければならないなー、ということは、ヒシヒシと感じる。

幸いにも、僕はまだ残酷な行為を行使するにはまだまだ年月があるようだし、じっくり蓄えていこうと思う。


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by matsumo54 | 2008-02-20 04:58 | A
---a-2---ラムネ温泉
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ラムネ温泉。
大分の長湯温泉街にある。
藤森照信ら設計。

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僕が思ったのは、洞窟のような建築だということ。入り口があって道があって広がって、ふと外がひらけて。みたいな。

そんなの普通じゃん。って感じかもしれないけど。でも構成がそういう建築ってよくあると思うんだけど、印象としてそう感じる建築って意外にない気がする。あるとしたらお化け屋敷とかそのへん。

でもよく考えたら、温泉って結構、洞窟的な感覚が好まれるビルディングタイプかもしれない。裸になるには奥でないといけない。だから温泉がある場所は経路の一番最後っていうのがセオリー。それでいて意外にその一番奥が外界に対して開かれているというものが結構ある。でもそれはなんとなく洞窟の奥に広がるバーチャルな環境って感じがしてあんまり気にならないような感覚って、みんな共感できるんじゃないかな。


そういう風に考えると、この温泉はちょっとニクい。
前面道路に面した入り口があって、そこから入る。ちょっと狭くて暗い廊下を通る。そしたら受付があって、そのまま広いロビーに到達する。ロビーの向こうには中庭の緑が見える。ロビーの縁側は軒がえらい低くて、空までは見えない。ロビーを抜けていったん中庭へ出る。するとその中庭は前面道路にこれでもかと言わんばかりに開いている。(実はロビーも前面道路に対して開いているが。)中庭と前面道路の境界は低い木の柵だけ。
けど、人間の感覚は不思議なもので、物理的にこんなにも開かれているにもかかわらず、経路が洞窟的であったことによって、さっきまで自分がいた前面道路はどこかバーチャルな風景のように感じてしまう。今の自分とは違う世界のように。だから同時に、開かれた中庭は、中庭の向こうにいる人(環境)に対して、温泉に入りにきた自分を演じる場となる。(ちょうど、劇をやる人が、観客をジャガイモだとか思い込むのと一緒な感覚だと思う。劇をやる人にとって大事なのは演じるという行為。)そして演じることは、気分を高揚させる。

その中庭を通って、温泉にたどり着くことになる。


言葉で語っても、空間のシーンは全然わからないと思うが、とにかく写真を見る限りは、すごく周囲の町に対して開かれた温泉だなー。って感じだと思うけど、実際行ってみるとそうではないということを少し伝えたかった。

温泉っていう体験を演出する建築。

機会があれば行ってみて欲しい。というか僕もまた行きたい。


建築は写真だけでは伝わらないということを実感した。

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また行きたくなる建築っていうのは、入れ物としての建築が素晴らしいからだけではないと思う。ソフトな部分(機能というか用途というか、使う人が何を考えているか)が案外重要なことだと最近思う。僕は入れ物としての建築をあまりにも信頼しすぎてきた気がする。建築がソフトの部分に対してどう答えているか、大切なことだと思う。
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by matsumo54 | 2007-12-10 05:03 | A
---a-1---重松象平講演会
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先日、九州大学の建築学科まで遠征して建築家・重松象平さんの講演を聴いてきた。


彼はOMA(office for metropolitan architecture)のNY代表を努めている人物である。若干34歳。
OMAといえばレム・コールハースがその代表を務めているということで世界的に有名かつ、世界中の現代建築に多大な影響を与えている設計事務所だから、そのNY支部の代表ともなるとそれはもう、ものすごい人なんだろう。と、そのネームバリューから勝手に決めつけて、はたして話が理解できるだろうかとちょっと不安になりながら講演を聴いた。


結果的に話はすごく単純、且つわかりやすかった。たぶん専門知識のほとんどない人間でも高校生レベルの社会的メンタリティというか常識を持っていればほとんど理解できるのではないかというくらいわかりやすかった。

これこそがOMAの、世界的な建築界において第一線でイニシアティブをとり続けている所以だろうと思った。

彼らは都市・建築を非常にわかりやすいアイコンやロジックに還元し、それをクリティカルに、時には少々アイロニカルに操作することで、これまた非常にわかりやすいアイコンとしての建築を作り出す。(この場合のアイコンとは建築形態それ自体ではなく、それ以前の紙上のダイアグラムであると考えられる。)それゆえに彼らのプレゼンテーションは、非常にクリアでわかりやすい。

また、彼らは戦術として、誰にでも興味を持たせやすく理解をさせやすい経済原理を建築や都市の設計のツールとして用いている。資本経済原理をホイホイと迎合するのでもなく、かといって厭世的に批判するのでもない。ちょっと斜に構えて、クールな態度で資本経済原理のほんの一部をその時々に都合のいいように利用する。そのような態度は、資本経済の渦の中でもがきあがいている人々を不意にドキリとさせるのである。

このような、いわゆるOMAらしさが重松さんの講演にも随所に見られた。正直なところ、ずるいなぁ、と何度も思ったが、話自体は現在の世界的ないくつかの問題を面白い切り口で批評する、非常に示唆に富んだものであったし、しかもOMAの近作のプレゼンを絡めながら話すので、とても楽しいものでもあった。



あと、70年代にコールハースが非常な興味を持って注目していたN.Y.を、重松さんは「現在のN.Y.は社会体制的にも経済原理的にも保守的で古い体制でつまらない場所だと思っている」と一蹴したことがとても興味深かった。
これは、自分の母体であるOMAから脱却するためのポスト・コールハースとしての重松さん自身のアイデンティティであるのか、コールハース自身のN.Y.に対する失望なのか、いずれにせよコールハースの著書である『錯乱のニューヨーク』はもはや古典となったということではないだろうか。

確かにN.Y.というかアメリカという国は2001年の9.11テロ以降、確実に世界からのポジティブな関心を急速に失った。向けられるのはネガティブな視線ばかりになった。例えば今年のベネチア・ビエンナーレの会場は本当にポスト・9.11、ポスト・ブッシュ一色といった様相でえらく辟易させられたが、このような世界的な流れは着実にアメリカのアイデンティティを貶めている。その結果、対外的にも対内的にも保守的になったアメリカに興味が持てなくなったのは時代的なものなのかもしれないが…。




重松さんは、建築家の使命として世界中における国際的な文化圏を作り出したいというようなことを言っていたが、同時に日本のこれからのアイデンティティ形成の問題は自分の世代の責任であるというようにも語っていた。
アイデンティティとは他者の存在によって成立するものである。日本のアイデンティティというものは国際的な視野無しには存在し得ない。戦後、アメリカの後ろに隠れることで放棄し続けてきた日本という国のアイデンティティの形成は、アメリカが失墜しようとする現在において、差し迫った問題になっていることは確かである。

彼がこれから日本をその活動領域の中に含めた時、どのようなアプローチを見せてくれるのか、とても興味がある。
また、僕たちの世代もそれに対して問題意識を持たなければいけないと思う。



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by matsumo54 | 2007-11-03 03:49 | A