19850830-matsumoto-goshi
by matsumo54
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カテゴリ:N( 12 )
---n-15---お知らせ
気分的に新しいブログを作りました。
といってもエキサイトのままですが。アカウントを二つもゲットしてしまいました。これは悪いことではない…ですよね?
そのへんちょっとわかんないけど、まあいいか◎
まあ、興味があれば◎
>>>MG54σ<<<
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by matsumo54 | 2008-07-20 01:19 | N
---n-14---苺
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食欲なくした人ごめんなさい、ダイエットをしよう!


自分はどのへんなんやろう。
まだまだ青いよーて言いたい。
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by matsumo54 | 2008-06-22 05:48 | N
---n-13---雨
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ついに梅雨入りしたような雰囲気です。
この一週間雨が降り続くようです。

雨は実際あんまり好きでない。

でもこういうふうに嫌いなものがあるからこそ成立した人間の文化みたいなものがあるわけで、そう思うとなんとなく感慨深いです。
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by matsumo54 | 2008-06-16 03:03 | N
---n-9---光
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うちの研究室は半地下になってて、自然光はあんまり入ってきません。
ちゃんと研究室の前にはドライエリアがあって、採光とか通風とかできるようになってるんだろうけど、周りの建物の背が高かったりして、本当に自然光が入りません。
けど、ある時間帯になると、太陽の光が遠慮がちにドライエリアのコンクリートの壁を照らします。方角がよくないので相変わらず室内に光が入ることはありませんが、そのほんわか照らされたコンクリートの壁はすごくきれいだと思います。

先輩に聞いたのですが、午前中のある時間になると研究室の向かいの建物の窓に太陽の光が反射して研究室の中に光が差し込むことがあるらしく、とてもきれいなのだそうです。いつかそれを体験したいなというように思っています。

あと、写真でそういう時間の厚みも含んだ空間を表現できるようになりたいなーと思ったりしています。
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by matsumo54 | 2008-05-01 01:04 | N
---n-8---電線
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だからなんだ、という感じではあるけれども、電線が空に張り巡らされてる風景が好きです。

でも、例えばもし僕の嫌いな人が「電線が好きだ!電線を守ろう!」と言い出したら、僕は電線のある風景がとたんに嫌いになる気がします。


僕は風景といいながら、いったい何を見てるんだろうと思います。

意味とか記号性とか、なんかそういうのとは少し違う気がします。でももしかしたら、そういうことかもしれないという気もします。


僕が思うには、全ての見えるものは結局、自分の中の信念とか意地とかそういうドロドロした概念的なものである気がします。




…内容も結論もだからなんだという感じですね。失礼しました。笑


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by matsumo54 | 2008-04-12 01:11 | N
---n-7---桜
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春ですね。
最近よくボーッとしてます。
とても心地がいいです。

結局、僕はこういう時間を大切にしたいために、いろんな大変なことをしようかな、しなければならないな、という気になるんだろうなーと最近思います。
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by matsumo54 | 2008-04-09 22:34 | N
---n-6---ROMA
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この人達はなんでこんなにたくさん、同じ場所に来るんだろう。


と、考えてしまうほど、異様な風景の広がっていたローマの都市。



ローマという都市にはいろいろ歴史的に重要な建築とか町並が溢れかえっているんだけど、そういうものはほとんど問題にならないくらい、多国籍な人間の大集団が作り出す、異様な風景が興味深いと思った。



ローマみたいな歴史的な厚みをもった都市が、情報と化し、大衆に消費されるという傾向を嘆くような意見は世界中で語られてるし、なんとなくそのような気持ちもわかるんだけど、それとは別の話として、情報の持つ力はすごいな!と思わされる。

ローマは、生活の場であった都市を、情報をストックする場所にしてしまったと思う。それに対する倫理的な意見は抜きにして、単純に都市の活力という観点からいうと、ローマはすごいパワーを持ってる。


ローマの後を継げと言う気は全くないけれど、それでもこれからの都市は、もっと、リアルな土地とかとは離れた部分(バーチャルな領域とか)も常に一緒に考えていくことが大切になってくるんではないかなというふうに思う。
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by matsumo54 | 2008-01-26 23:17 | N
---n-5---息抜き
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ちょっと、息が詰まりそうなので、背伸びするだけじゃなくて、もうすこし肩の力を抜いて、等身大の自分の文章も、チラホラ書いていきたいな、と思っているので、そこのとこ、よろしくお願いします。笑
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by matsumo54 | 2008-01-10 00:51 | N
---n-4---いちメディアとして
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自分が考えることについて文章を書いたり、発言をしようとしたりしようとする時に、知識があまりにも足りないという壁にぶち当たることが多々ある。もっと、豊富な知識さえあれば、自分の考えを豊かにすることができるのにと思う。

このことからわかることは、人は(少なくとも僕は)自分の意見を展開するにあたって、他人の言説を拝借して堂々と使っているということだと思う。他人が言説していない、あるいは言説しているが僕自身がそのことを知らない分野の事柄に関しては、なかなか考察を加えることができない、というか、する気にならないのだと思う。(ここで一歩踏み出す人が、世の中に影響を与えるんだと思う。)

こういったことは、とっくに構造主義の学者達が主張してきたことだし、現在では構造主義学者でなくとも、普通の人でさえも、日常的に常識として言ってることかもしれない。(現に僕もそう考えているわけだし。)

でも、人はそういうことを理解していながらも、フトした時にしか思い出さない。普段は忘れている。無意識のうちに人の意見をさも自分の考えであるように語る。いや、この行為自体は正当だと思う。

問題は、人の言説を使うにあたって、その言説をきちんと解釈できているかということだと思う。その人が持っていた概念をきちんと自分も獲得できたかどうかということだと思う。それこそが、学習することの意義だと思う。そして、真の知識だと思う。

解釈を怠って、言説だけを伝言ゲームのように発信する人がいる。追求したら、「いや実は誰々がそう言っていたからだ」とか「みんながそう言ってるから」としかその言説を説明できない人がいる。そういう人は危険だと思う。ある状況において、とんちんかんな発言をする。こういった人ほどきっぱりと物事を言いたがるので、聞いてる人もついつい同意してしまいやすい。
今のメディアはそういうことを平気でやるところが多い。僕はそれはものすごく問題だと思っている。情報を受信する人がどう頑張っても惑わされるほどに悪質なメディアが存在すると思う。(メディア自身は自覚していないかもしれないけど。)

同時に、僕自身がそのような発言をしてこなかったか、また、今現在していないか、常に注意していなければならないと思う。
現在は本当に一人一人の人間がメディアとなっている社会だから。
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by matsumo54 | 2007-12-15 23:59 | N
---n-3---学問について
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大学生なので、論文を書いている。

書いていて思うのだが、現代の研究者というのは皆、ゲームをやっている。遊んでいる。研究というのは、ゲームであり、遊びだ。

僕は、学問を批判するためにこの文章を書くのではない。かといって賞賛するつもりでもない。ただ気付いたのだ。


現代において学問というのは、言葉遊びだ。それは日本語でも英語でも、数学語でも物理語でも建築語でも全て一緒だ。

昔も(学問と宗教が今よりもっと結びついていたから断定できないかもしれないが)、たぶん、ある部分において学問は言葉遊び的な性格を持っていたと思う。

数学にしろ物理にしろ、哲学にしろ歴史にしろ建築にしろ、いわゆる科学と呼ばれる学問領域は、全てゲームである。



となれば、人間はゲームによって、遊びによって、この世界を作り上げてきたといっても過言ではないと思う。
ただ、宗教はゲーム性を帯びないから、世界の半分は宗教が作ったとも考えられる。

だから、人間の本質は、「遊び、信仰する者」であると言えるとも思う。


とにかく、「自分は何者であるか」とか、「環境問題について考える」とか「1+1=2」とかそういうことは全てゲーム的であることを認めたいと思う。


そうだとしたら、学問と言うより、むしろ言語というもの自体がゲーム的だとも思う。

僕らは常にゲームの中で生きているのかもしれない。



気付いた、というかフと思ったことをつらつら書いてみた。
もっと真剣に考えてみたいと思っている。
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by matsumo54 | 2007-12-01 23:45 | N