19850830-matsumoto-goshi
by matsumo54
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---t-2---Firenze-2
c0095965_2364024.jpgサン・ミニアート・アル・モンテ教会。

フィレンツェの街から南の丘の上に、変なファサードの教会が見える。人の顔みたいに見えて仕方がない。
とりあえず、行ってみた。
着いたのは夕方で、大理石(たぶん)のファサードの装飾に夕日が反射して、とてもきれいだった。
c0095965_2581362.jpgc0095965_330251.jpg内部に入る。

フィレンツェの大聖堂やフランスなんかのゴシックの教会のようにヴォールトによって建築の要素がドロドロに溶け合う、ある種、人間の理性を超越するような空間とは印象が違った。
床、柱、壁、梁、屋根などの建築要素は全て明確にその存在意義を主張しながら、構成されている。非常に知的な空間に思えた。

例えば、フィレンツェの大聖堂などでは、その人智を超えた空間の中に、人は神の偉大さにただただ畏敬し、その感動の中に信仰を見出す(ことを目的としている)としたら、サン・ミニアート・アル・モンテ教会においては、人は神に感謝し、人の知恵によって神と対話し、思想に耽ることで信仰を見出すような知的な意志が感じられると思った。

完全に、僕の勝手な解釈なので、いろんな議論はあると思う。

ただ、どちらの場合にしても、それぞれの社会の要請に応えることで創られた、それぞれ信仰のために必要な空間であったということだろう。求められるものが変化すると、空間も変化できる。これこそが建築の素晴らしいことだと思う。


それと、優れた建築は、素晴らしい自然と同じくらい、あるいはそれ以上に、人間の理性をコントロールすると思う。
そういった意味では、建築や自然といったものは、明らかに現実の産物でありながらも、そのそれらが人間に与えようとするものは、限りなく抽象的な世界だと感じた。
c0095965_1492716.jpgサン・ミニアート・アル・モンテ教会に関して、詳しいことはわからなかった。
11世紀から13世紀までの間に建設されたらしい。設計者はわかりませんでした。

様式的には、トスカーナロマネスク様式。この時代のトスカーナ地方の人々は、ゴシック建築を野蛮なものとみなし、なかなかそのエッセンスを取り入れようとはしなかった。それゆえに、初期キリスト教におけるバシリカ形式の構成を伝統的に用いていた。内部は単純な化粧小屋組による素朴な空間。それに対し、前面ファサードの装飾は内部の空間構成原理とはほとんど切り離されての構成となっている。このへんが、サン・ミニアート・アル・モンテ教会の時代。

その後、ゴシック様式は徐々にロマネスク建築の中にその建築的要素を取り入れられることによって、フィレンツェの大聖堂や、有名なサンタ・マリア・ノッヴェラ教会などが誕生することになる。

簡単にいうと、そういう歴史の流れのようです。
c0095965_14321088.jpg柱と、アーチ型で組まれた垂れ壁によって空間の分節がはっきりしている。

小屋組の材には鮮やかな装飾が施されている。

窓は小さい。


もっと歴史が知りたいと思う。僕はキリスト教への信仰がないから、その精神によって空間を理解することができない。素晴らしいなあ、と感じても、それは本質的なところでは正しい理解であったとしても、詳細においてとんちんかんな理解かもしれないからだ。
歴史を知ることによって、主観的には空間を理解できないかもしれないが、少なくとも客観的には理解できるようになると思う。
それは、とてもエキサイティングなことだと思う。
c0095965_14435652.jpg教会の一番奥は、半地下と中二階の二層構成になっている。
半地下部分は、ヴォールトによる多柱空間。光は入ってこず、異常なまでに静寂な空間。

歴史というものは一筋縄では理解できないものだと思う。
それがまた、面白い。
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by matsumo54 | 2007-11-27 14:50 | T
---p-4---Bibliothèque Nationale de France
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わからないことがあって、それを知ろうとして、調べて、わからなくて、または調べることができなくて、どうでもよくなるということは、よくあることだと思うし、全体にとってみてもそれが、他の場合に比べて、よい結果であるということも、すごくよくあることだと思います。
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by matsumo54 | 2007-11-20 21:32 | P
---t-1---Firenze-1
c0095965_211416.jpgイタリア、フィレンツェ。
ミケランジェロ公園から眺める。
写真左側の大きなドームはフィレンツェの大聖堂。
オレンジの情熱的なおばちゃんは関西語を話していた。
c0095965_21574.jpgフィレンツェの大聖堂。サンタ・マリア・デル・フィオーレ
とにかく人が多い。
c0095965_216560.jpgそして果てしなく大きい。
c0095965_2182094.jpgルネサンス期の建築家ブルネレッスキによる設計。
交差式のリヴ・ヴォールトの身廊、側廊空間の奥に、あまりにも巨大なクーポラを出現させる、感動的な空間。

この大クーポラ(ドーム)の構造は、二重殻構造といったもので、ブルネレッスキはこの革新的なテクノロジーの開発者として一躍名を馳せた。らしい。

クーポラの内部には、一面にキリスト教絵画が描かれている。
建築家(技術と芸術)と権力と経済力と宗教が結びつくことで誕生した、奇跡の空間と思った。
c0095965_21243122.jpgちなみにクーポラは上まで登れる。
下を見下ろすと、人が蟻のようで、ちょっと笑える。

信仰心はないが、いや、ないからこそ、こんな神聖な場所にズカズカと足を踏み入れていいのだろうか…と思ったりもした。
でも好奇心の方が勝る。
c0095965_21303093.jpg更に登ると、外に出ることができる。
フィレンツェの町並を眺める。圧巻。

ちなみに、小説「冷静と情熱の間」で、このクーポラに登っていたシーンが感動的だったので一度登ってみたかった。
映画化されたときの映像は、夕焼けですごくきれいな場所だと思っていたが、変な落書きが多くて面白かった。

落書きは、多くがアジア語圏の言語による、“誰々参上”的なものとか相合い傘みたいのとか。説教でもしたいものだが、ああいう落書きが1000年後とかに発見されたら、それはそれで文化的に意義があることのようにも感じた。


ちなみに、ヨーロッパの至る所に溢れるいわゆるグラフィティは、よく観察してみると場をわきまえて、宗教施設とかには決して描かれていない。描いたけど消されてるとか単にリスクが高いとかってことかもしれないけど。
c0095965_21491895.jpg街中では、パフォーマンス的な感じで絵を描いてた。たぶん観光戦略の一貫だと思う。
c0095965_2221531.jpg結局、有名絵画のレプリカ。


大聖堂は観光地化しているとはいえ、素晴らしい空間であることには間違いない。どギツイ感じはするが、たぶんそれは僕がキリスト教的な精神を理解していないことにもよると思う。

とはいえ、フィレンツェにはこの他にも、素晴らしい教会があった。キリスト教に対する精神も、時代や身分、状況によって様々だということだと思う。

次回はその教会について感じたことを書きたい。
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by matsumo54 | 2007-11-18 22:12 | T
---p-3---071115
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世界は抽象に向かっている。確実に。


抽象的なものは美しい。綺麗。

現実的で具体的なものは必ずしも美しくない。


たとえば、すごく悲しいときに、理性が静かであることを望む時に、体と状況はそれを許さない。モノを食べろというし、トイレに行けという。トイレットッペーパーがないから買いに行けというし、ATMから金を下ろせという。


人は幻滅し、諦める。開き直る人もいるかもしれない。たくさん食べたり買い物をしたりして現実に適応しようとする人も。死を選ぶ人もいるだろう。それはすごく理解できることだと思う。




抽象的なものは人類が誕生した時からの、最も強い願望の一つだったに違いない。それゆえに、意識的にそれに反抗しようということも起こるのだと思う。

そして、世界は今、これまでにないほどに抽象へと、速度を上げつつ向かっている。全てはマクロに捉えられ、それらは全て美しいリズムを持っていることがわかった。
メディアの発達によって様々な形の抽象が提示され、もはや、ある一つの世界を作り出してさえいる。状況は、既に準備はできているということだ。
個々の人間はヴァーチャルな空間の中に実体を持たないもう一人の自分を一時的に作り出すことを覚え始めた。


人々はヴァーチャルの世界の中から、現実の世界の出来事を他人事のように見るようになった。他人事のように嘲笑するようになった。もがき苦しむ人々を嘲笑するようになった。傍観するようになった。

これは、抽象世界がまだ未成熟な証拠だ。一足早く、抽象世界にセカンドハウスを構えた人間が、マクロに物事を見ることを知った人間が、それをできない人々を哀れみ、嘲笑している。でも、彼らはミクロなものの見方はできないのだ。だから傍観することしかできない。
そしてなにより、本当に完成した抽象世界では、その世界に住む人々は決してこちらを見ないはずだ。見てはいけないことを知っているはずだ。見てしまうと共倒れしてしまう。


考えてみると、人間の抽象化は、人間が生き延びるための本能だったのかもしれない。手のつけられないほどに悪化した環境や経済などの状況。人間が生き延びるためには抽象世界が必要なのだ。
動物の本能は、自分が生き残るために、他を切り捨てようとする。人間は、それを理性でコントロールしてきた。そして今は、理性と本能が共犯者になった。誰にも止められない。現実世界はきっと、本質的な部分で切り捨てられる。




でも、それでいいのか。

こういうことをいう人は偽善者として罵られる。


でも、それでいいのか。
今、現実(のはずの)世界の、僕らの、何らかの痕跡を留めるべきではないのか。抽象の世界では考えられない醜いものを見出すべきではないか。

ただのノスタルジーかもしれないが、僕は、まだこの現実世界のことが好きでたまらない。
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by matsumo54 | 2007-11-15 18:29 | P
---m-1---dadaism
友人に誘われ、親不孝のBASEで開催されるイベント、dadaismに行ってきました。
今回はSoloal-One a.k.a. Olive Oil & DISC SYSTEM meets INNER SCIENCE Release Partyということで、僕はぶっちゃけ、全く知らない方々ばっかりだったんだけど、まあ、大体8人くらい順番でやってて、それがみんながみんな質の高いLIVEをやることに正直驚いた。

主催者側から言わせたら、当たり前だろ、なめんなよって感じだろうけど。


とにかく、久しぶりに、音楽をカッコいいと心から感じることができた、メチャメチャ楽しいイベントだった。



それにしても、時間って不思議。って小学生の女の子みたいなことをフと思った。
長いくせに薄い時間とか、短いのに濃い時間。っていうのは本当にあって、最近は時間の前後が不明になるような精神病みたいなことも時々起こるし。笑

結局、時間ていうのは人間の理性(みたいなもん)が作り出しているんだと思う。
いろいろ、物理的な話で反論したい人もおると思うけど、僕はよくわからんからそれに対していちいち答えることはできんけど、時間というのは結局、人間が生きていくために作り出した概念に他ならないと、どうしても考えている。

時計とかその他、時間そのものであると考えられるものは、時間という概念に適応する“何か”を計測する道具に他ならないんじゃないかと。知識とボキャブラリーがないので、その、“何か”を言い表すことができないのがもどかしいが、そう考えているわけです。



ていうのは、ライブの爆音の中で、「さっき起こっていたコトとか今日の朝起きたコトとかっていうのは、仮に昨日とか去年に起こったコトであっても、基本的に意味としては全く変わらないコトなんだろうな。」みたいなのを感じたから。そして、そういうコトっていうのは僕の生きてる中で意外にたくさんあるのではないかと。むしろそういうコトばかりなのではないかと。

ちょっとわけが分かりませんが、理性(みたいなもん)というのは、バラバラに存在しているコトを、見事に時間という軸に並べて行ってるんだろうな。すごいな。ということです。

まあ、その理性(みたいなもん)のせいで、歳をとるとか、死ぬとか、憂鬱な思いをするわけだけどね。笑
昨日は、ほんのちょっとだけだけど、時間って言う軸があやふやになったようで、気持ちがよかったわけです。


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by matsumo54 | 2007-11-12 02:29 | M
---p-2---森山大道写真展
イムズのアルティアムで開催中の森山大道写真展に行った。

詳細は
会期:2007年10月26日(金)〜11月25日(日)
休館日:11月20日(火)
入場料:一般400円(300円)、学生300円(200円)
※()は前売料金/チケットぴあ再入場可、中学生以下無料



写真家って何のために写真を撮るのかってよく考える。

観光地とかで写真を撮って、「ほらほら、ここに行ってきたんよ」とか「ほら、この写真の建物ってテレビとかで見たことあるでしょ」とか、なんとか、そういうことをするために撮ってるわけではないと思う。

何かを表現したいんだと思う。何か?

そんで、「僕はこれこれこういうことを表現したいから、こういう構図の写真を撮るんだ」って言って撮る写真家は、まあ、いるかもしれないけど、そこから更に「この要素がアレを表現してて、あの要素はああいうことを表現してるんだ」って、いちいち言葉で説明できることを表現しようとしている人って、あんまりいないんじゃないかなって思う。

森山さんに至っては日常に現れてきた風景を、その一瞬一瞬で何かを感じとったシーンを瞬間的に撮るみたいな手法をとっている。(そうでない作品もいくつかあるけど。)んで、その何かは「あー、あの看板、何か面白いなー」とか「なんか、あの人達のポーズ、ウケる」とか、言葉を伴うものはあるのかもしれないけど、「こういうことが表現したいんだ」の部分の言葉はあんまりないと思う。

だから、言葉では、説明できない“何か”を表現しようとしてるんだと思う。
なんていうか、自分の中にある「ほら、あれよ、なんていうか、ほら、なんかさぁ」みたいな言葉で言い表せないもどかしい部分を、写真に託してるんだと思う。

そのもどかしさのようなものが魅力だと思う。



だから僕が思うのは、人の写真を見て、その手法みたいなテクトニカルなこととか、カメラワークみたいなテクニカルな部分を分析して批評するのは必要なこと。ただ、その写真を見て、「ああ、この写真はこういうことを表現してるんだな」みたいなことを言葉で理解してしまうことは実際のところ、作品の魅力を矮小してしまうんじゃないかっていうこと。

もちろん、環境問題とか平和とか家族愛とかそういうテーマ性の強いものはある。けどそういうものも、結局はテーマに対して言葉にならない何かを表現したいから写真っていうものを使うんだと思う。言葉で全て完結できるなら、文字とか音声だけでいいはずだから。

言葉にできないということは、ひどく不安なものだと思うけど、人間の世界の言葉にならない部分を担当するのが芸術の役割だと思うから、芸術を言語化することは、ちょっと違うんじゃないか。僕はそう思っています。


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by matsumo54 | 2007-11-08 02:56 | P
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何も考えたくない。

人間は言葉という、ものすごく不自由な道具を作り出してしまったから、それを補うために芸術みたいな、ものすごくわかりにくいものを作り出さざるを得なかったんだと思う。

それはそれで素晴らしいと思うけど。
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by matsumo54 | 2007-11-07 01:31 | P
---a-1---重松象平講演会
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先日、九州大学の建築学科まで遠征して建築家・重松象平さんの講演を聴いてきた。


彼はOMA(office for metropolitan architecture)のNY代表を努めている人物である。若干34歳。
OMAといえばレム・コールハースがその代表を務めているということで世界的に有名かつ、世界中の現代建築に多大な影響を与えている設計事務所だから、そのNY支部の代表ともなるとそれはもう、ものすごい人なんだろう。と、そのネームバリューから勝手に決めつけて、はたして話が理解できるだろうかとちょっと不安になりながら講演を聴いた。


結果的に話はすごく単純、且つわかりやすかった。たぶん専門知識のほとんどない人間でも高校生レベルの社会的メンタリティというか常識を持っていればほとんど理解できるのではないかというくらいわかりやすかった。

これこそがOMAの、世界的な建築界において第一線でイニシアティブをとり続けている所以だろうと思った。

彼らは都市・建築を非常にわかりやすいアイコンやロジックに還元し、それをクリティカルに、時には少々アイロニカルに操作することで、これまた非常にわかりやすいアイコンとしての建築を作り出す。(この場合のアイコンとは建築形態それ自体ではなく、それ以前の紙上のダイアグラムであると考えられる。)それゆえに彼らのプレゼンテーションは、非常にクリアでわかりやすい。

また、彼らは戦術として、誰にでも興味を持たせやすく理解をさせやすい経済原理を建築や都市の設計のツールとして用いている。資本経済原理をホイホイと迎合するのでもなく、かといって厭世的に批判するのでもない。ちょっと斜に構えて、クールな態度で資本経済原理のほんの一部をその時々に都合のいいように利用する。そのような態度は、資本経済の渦の中でもがきあがいている人々を不意にドキリとさせるのである。

このような、いわゆるOMAらしさが重松さんの講演にも随所に見られた。正直なところ、ずるいなぁ、と何度も思ったが、話自体は現在の世界的ないくつかの問題を面白い切り口で批評する、非常に示唆に富んだものであったし、しかもOMAの近作のプレゼンを絡めながら話すので、とても楽しいものでもあった。



あと、70年代にコールハースが非常な興味を持って注目していたN.Y.を、重松さんは「現在のN.Y.は社会体制的にも経済原理的にも保守的で古い体制でつまらない場所だと思っている」と一蹴したことがとても興味深かった。
これは、自分の母体であるOMAから脱却するためのポスト・コールハースとしての重松さん自身のアイデンティティであるのか、コールハース自身のN.Y.に対する失望なのか、いずれにせよコールハースの著書である『錯乱のニューヨーク』はもはや古典となったということではないだろうか。

確かにN.Y.というかアメリカという国は2001年の9.11テロ以降、確実に世界からのポジティブな関心を急速に失った。向けられるのはネガティブな視線ばかりになった。例えば今年のベネチア・ビエンナーレの会場は本当にポスト・9.11、ポスト・ブッシュ一色といった様相でえらく辟易させられたが、このような世界的な流れは着実にアメリカのアイデンティティを貶めている。その結果、対外的にも対内的にも保守的になったアメリカに興味が持てなくなったのは時代的なものなのかもしれないが…。




重松さんは、建築家の使命として世界中における国際的な文化圏を作り出したいというようなことを言っていたが、同時に日本のこれからのアイデンティティ形成の問題は自分の世代の責任であるというようにも語っていた。
アイデンティティとは他者の存在によって成立するものである。日本のアイデンティティというものは国際的な視野無しには存在し得ない。戦後、アメリカの後ろに隠れることで放棄し続けてきた日本という国のアイデンティティの形成は、アメリカが失墜しようとする現在において、差し迫った問題になっていることは確かである。

彼がこれから日本をその活動領域の中に含めた時、どのようなアプローチを見せてくれるのか、とても興味がある。
また、僕たちの世代もそれに対して問題意識を持たなければいけないと思う。



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by matsumo54 | 2007-11-03 03:49 | A
---n-1---はじめに
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mixiやGREE、モバゲーといった日本におけるSNSが、招待制というシステムによってユーザーを獲得しているということから、海外の多くのSNSが自由登録によってユーザーを獲得して自由なコミュニティを形成していることに対して、ゲーティッドコミュニティのメタファであるという皮肉をされている。
そのような環境が、日本のネット世界における未成熟な社会環境を形成しているとも言われている。
さらにそのような状況がリアルな社会環境にまで影響を及ぼしている、とも言われる。


そういった意見には、信憑性が全くないわけではなし、僕自身も半分くらいは賛同しているという立場である。



ただ、ネット空間における自己は非常に多様になることが可能であり、一人の人間の自己は同時にいくつものコミュニティに属することができる。
このような現象は、近代から現代にかけての現実世界における社会環境に全く見られなかったモノというわけではないが、ネット上では物理的な制約の大部分が自由になることによって、現実世界からはもはやかけ離れた自己を実現することができるようになった。
つまり、意志次第で、一人の自分は安全地帯としてのゲーティッドコミュニティ(肝心な安全神話は崩れつつあるが…)から様々な真偽の定かでない情報の飛び交うような無法地帯まで様々な環境を、ほぼ同時に拠点とすることができる。




うんたらかんたら…





まあ、そういうわけで、mixiばっかりにこもってるのも、もったいないかなーって考えて、再びブログを開設してみた。
というか、mixiの、ゲーティッドコミュニティ特有の義務化された義理みたいな、いろいろなシステムが時々めんどくさくなるから、逃げ場的な感じで。
あと、向こうではちょっとひかれそうなことも結構好きなだけ書ける。

今の時代だからこそ、この両刀使いっていうのはかなりアリなことだと思う。


あと、写真とかも大きく貼れるし、テンプレートも自由だしね。

しばらくはmixiとうまく棲み分けていきたい。


んー…なんていうかこういうのって、セカンドハウス的なノリで楽しい。
しかも、ネット上ではリアル世界に比べて環境のヒエラルキーが弱いから、相当自由にやれる。
すごいよね、blog考えた人も、そこからSNS考えた人も。




とりあえず、最初はこんな感じです。
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by matsumo54 | 2007-11-01 03:49 | N