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by matsumo54
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---p-6---塩原-天神
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by matsumo54 | 2007-12-27 03:09 | P
---p-5---アパート
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アパート1

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アパート2
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by matsumo54 | 2007-12-27 03:00 | P
---n-4---いちメディアとして
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自分が考えることについて文章を書いたり、発言をしようとしたりしようとする時に、知識があまりにも足りないという壁にぶち当たることが多々ある。もっと、豊富な知識さえあれば、自分の考えを豊かにすることができるのにと思う。

このことからわかることは、人は(少なくとも僕は)自分の意見を展開するにあたって、他人の言説を拝借して堂々と使っているということだと思う。他人が言説していない、あるいは言説しているが僕自身がそのことを知らない分野の事柄に関しては、なかなか考察を加えることができない、というか、する気にならないのだと思う。(ここで一歩踏み出す人が、世の中に影響を与えるんだと思う。)

こういったことは、とっくに構造主義の学者達が主張してきたことだし、現在では構造主義学者でなくとも、普通の人でさえも、日常的に常識として言ってることかもしれない。(現に僕もそう考えているわけだし。)

でも、人はそういうことを理解していながらも、フトした時にしか思い出さない。普段は忘れている。無意識のうちに人の意見をさも自分の考えであるように語る。いや、この行為自体は正当だと思う。

問題は、人の言説を使うにあたって、その言説をきちんと解釈できているかということだと思う。その人が持っていた概念をきちんと自分も獲得できたかどうかということだと思う。それこそが、学習することの意義だと思う。そして、真の知識だと思う。

解釈を怠って、言説だけを伝言ゲームのように発信する人がいる。追求したら、「いや実は誰々がそう言っていたからだ」とか「みんながそう言ってるから」としかその言説を説明できない人がいる。そういう人は危険だと思う。ある状況において、とんちんかんな発言をする。こういった人ほどきっぱりと物事を言いたがるので、聞いてる人もついつい同意してしまいやすい。
今のメディアはそういうことを平気でやるところが多い。僕はそれはものすごく問題だと思っている。情報を受信する人がどう頑張っても惑わされるほどに悪質なメディアが存在すると思う。(メディア自身は自覚していないかもしれないけど。)

同時に、僕自身がそのような発言をしてこなかったか、また、今現在していないか、常に注意していなければならないと思う。
現在は本当に一人一人の人間がメディアとなっている社会だから。
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by matsumo54 | 2007-12-15 23:59 | N
---t-3---L.A.
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アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス・ダウンタウン

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ロサンゼルス現代美術館 (Museum of Contemporary Art, Los Angeles、通称MOCA)/設計:磯崎新

展示の入れ替え中で、ミュージアムショップにしか入れなかった。

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ウォルトディズニーコンサートホール(WALT DISNEY CONCERT HALL)/設計:フランク・O・ゲーリー(Frank Owen Gehry)

ゲーリーはなんだかんだ言って、よい空間を作る能力があると思います。ただ、資本と結びつきすぎた、社会的な影響に関しては議論の必要があると思います。内部の写真は、いつかアップします。

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カルトランス第7地区本社(Caltrans District 7 Headquarters)/設計:モーフォシス(Morphosis)

大都市のど真ん中でこんなオフィスをつくれるのは、ロサンゼルスくらいだと思う。(もしかしたら日本も?)

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聖母マリア・カテドラル(Cathedral of Our Lady of the Angels)/設計:ラファエル・モネオ(José Rafael Moneo Vallés)

日曜日に行ったので、ミサに参加してきました。


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もちろんダウンタウンには、小さな店が軒を連ねる、歩いて楽しい(一歩間違えば危ない)地区もあります。
今回は、ダウンタウンのもう一つの顔というか、ヒューマンなスケールを明らかに意図していない、車によって人間との関係が可能になる都市空間構造の地区をピックアップしてます。
僕はこの日、歩いてこれらの、いわゆる名所を回ったので疲れました。名所と名所の間は何もない、人もいないので、退屈でした。車での移動を前提とした景観です。
一つ一つの名所は素晴らしいものです。ただ、それらは都市にあるにしては唐突すぎます。独立しています。孤立しています。

ロサンゼルスという街を非難しているわけではありません。機会があればまた行きたいくらいです。この街を訪れて、都市のあり方、都市と人間の関係のあり方はどういうものであり得るのか、という問いに対して、新しい解答を見出したくらいです。

ですが、やはり、都市のあり方、都市と人間の関係のあり方はどういうものであるべきなのかということに関しては、この街の都市モデルをそのまま踏襲するのは危ういのではないかという風にも考えています。そういう意味で、ロサンゼルスという街を安易に非難するだけではなく、批評的な視点を持って批判していくことが大切ではないかと思います。
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by matsumo54 | 2007-12-15 03:21 | T
---a-2---ラムネ温泉
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ラムネ温泉。
大分の長湯温泉街にある。
藤森照信ら設計。

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僕が思ったのは、洞窟のような建築だということ。入り口があって道があって広がって、ふと外がひらけて。みたいな。

そんなの普通じゃん。って感じかもしれないけど。でも構成がそういう建築ってよくあると思うんだけど、印象としてそう感じる建築って意外にない気がする。あるとしたらお化け屋敷とかそのへん。

でもよく考えたら、温泉って結構、洞窟的な感覚が好まれるビルディングタイプかもしれない。裸になるには奥でないといけない。だから温泉がある場所は経路の一番最後っていうのがセオリー。それでいて意外にその一番奥が外界に対して開かれているというものが結構ある。でもそれはなんとなく洞窟の奥に広がるバーチャルな環境って感じがしてあんまり気にならないような感覚って、みんな共感できるんじゃないかな。


そういう風に考えると、この温泉はちょっとニクい。
前面道路に面した入り口があって、そこから入る。ちょっと狭くて暗い廊下を通る。そしたら受付があって、そのまま広いロビーに到達する。ロビーの向こうには中庭の緑が見える。ロビーの縁側は軒がえらい低くて、空までは見えない。ロビーを抜けていったん中庭へ出る。するとその中庭は前面道路にこれでもかと言わんばかりに開いている。(実はロビーも前面道路に対して開いているが。)中庭と前面道路の境界は低い木の柵だけ。
けど、人間の感覚は不思議なもので、物理的にこんなにも開かれているにもかかわらず、経路が洞窟的であったことによって、さっきまで自分がいた前面道路はどこかバーチャルな風景のように感じてしまう。今の自分とは違う世界のように。だから同時に、開かれた中庭は、中庭の向こうにいる人(環境)に対して、温泉に入りにきた自分を演じる場となる。(ちょうど、劇をやる人が、観客をジャガイモだとか思い込むのと一緒な感覚だと思う。劇をやる人にとって大事なのは演じるという行為。)そして演じることは、気分を高揚させる。

その中庭を通って、温泉にたどり着くことになる。


言葉で語っても、空間のシーンは全然わからないと思うが、とにかく写真を見る限りは、すごく周囲の町に対して開かれた温泉だなー。って感じだと思うけど、実際行ってみるとそうではないということを少し伝えたかった。

温泉っていう体験を演出する建築。

機会があれば行ってみて欲しい。というか僕もまた行きたい。


建築は写真だけでは伝わらないということを実感した。

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また行きたくなる建築っていうのは、入れ物としての建築が素晴らしいからだけではないと思う。ソフトな部分(機能というか用途というか、使う人が何を考えているか)が案外重要なことだと最近思う。僕は入れ物としての建築をあまりにも信頼しすぎてきた気がする。建築がソフトの部分に対してどう答えているか、大切なことだと思う。
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by matsumo54 | 2007-12-10 05:03 | A
---n-3---学問について
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大学生なので、論文を書いている。

書いていて思うのだが、現代の研究者というのは皆、ゲームをやっている。遊んでいる。研究というのは、ゲームであり、遊びだ。

僕は、学問を批判するためにこの文章を書くのではない。かといって賞賛するつもりでもない。ただ気付いたのだ。


現代において学問というのは、言葉遊びだ。それは日本語でも英語でも、数学語でも物理語でも建築語でも全て一緒だ。

昔も(学問と宗教が今よりもっと結びついていたから断定できないかもしれないが)、たぶん、ある部分において学問は言葉遊び的な性格を持っていたと思う。

数学にしろ物理にしろ、哲学にしろ歴史にしろ建築にしろ、いわゆる科学と呼ばれる学問領域は、全てゲームである。



となれば、人間はゲームによって、遊びによって、この世界を作り上げてきたといっても過言ではないと思う。
ただ、宗教はゲーム性を帯びないから、世界の半分は宗教が作ったとも考えられる。

だから、人間の本質は、「遊び、信仰する者」であると言えるとも思う。


とにかく、「自分は何者であるか」とか、「環境問題について考える」とか「1+1=2」とかそういうことは全てゲーム的であることを認めたいと思う。


そうだとしたら、学問と言うより、むしろ言語というもの自体がゲーム的だとも思う。

僕らは常にゲームの中で生きているのかもしれない。



気付いた、というかフと思ったことをつらつら書いてみた。
もっと真剣に考えてみたいと思っている。
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by matsumo54 | 2007-12-01 23:45 | N
---n-2---American football
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もう、だいぶ前になるけど、友人が出場するアメリカンフットボールの試合を見に行った。

アメフトの試合をナマで見るのは初めて。

アメフトに関しては、漫画で得た基本的なルールくらいの知識しか頭になかったが、このスポーツは野球と同じで、スッキリしていてとてもわかりやすい。そして、見れば見るほど、奥が深い。

ぶつかりあって、走り抜けて、大声を出して、楽しそうだった。気持ちがすごく伝わる。


そして、その楽しさの裏には、常に苦しい時間が存在していることもわかる。そしてその苦しみが実は一番貴重なことだということもわかる。

こういうことは、何かしら自分で経験しなくてはわからないことだと思う。


僕は、自分の人生の中で、そういう経験を何回かしてこれたことを誇りに思うし、そういう経験を与えてくれた周りの人々や環境に感謝している。

そして、できることならば、これからの人生の中でもそういう経験ができたらいいと思う。

そのためには、自分で決断して、責任を持って行動することが大切だということもわかる。


僕はこの数年の間、そうしたことから何かにつけて逃げてきたことを後悔している。

でも、後悔からは次への良い選択を学ぶことができる。

僕は最近そういうことに気付いた。





こういう考え方って古い日本人的なのかな…どうしてもノスタルジックに聞こえてしまう気がする。
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by matsumo54 | 2007-12-01 03:57 | N