![]() ![]() 世界は抽象に向かっている。確実に。 抽象的なものは美しい。綺麗。 現実的で具体的なものは必ずしも美しくない。 たとえば、すごく悲しいときに、理性が静かであることを望む時に、体と状況はそれを許さない。モノを食べろというし、トイレに行けという。トイレットッペーパーがないから買いに行けというし、ATMから金を下ろせという。 人は幻滅し、諦める。開き直る人もいるかもしれない。たくさん食べたり買い物をしたりして現実に適応しようとする人も。死を選ぶ人もいるだろう。それはすごく理解できることだと思う。 抽象的なものは人類が誕生した時からの、最も強い願望の一つだったに違いない。それゆえに、意識的にそれに反抗しようということも起こるのだと思う。 そして、世界は今、これまでにないほどに抽象へと、速度を上げつつ向かっている。全てはマクロに捉えられ、それらは全て美しいリズムを持っていることがわかった。 メディアの発達によって様々な形の抽象が提示され、もはや、ある一つの世界を作り出してさえいる。状況は、既に準備はできているということだ。 個々の人間はヴァーチャルな空間の中に実体を持たないもう一人の自分を一時的に作り出すことを覚え始めた。 人々はヴァーチャルの世界の中から、現実の世界の出来事を他人事のように見るようになった。他人事のように嘲笑するようになった。もがき苦しむ人々を嘲笑するようになった。傍観するようになった。 これは、抽象世界がまだ未成熟な証拠だ。一足早く、抽象世界にセカンドハウスを構えた人間が、マクロに物事を見ることを知った人間が、それをできない人々を哀れみ、嘲笑している。でも、彼らはミクロなものの見方はできないのだ。だから傍観することしかできない。 そしてなにより、本当に完成した抽象世界では、その世界に住む人々は決してこちらを見ないはずだ。見てはいけないことを知っているはずだ。見てしまうと共倒れしてしまう。 考えてみると、人間の抽象化は、人間が生き延びるための本能だったのかもしれない。手のつけられないほどに悪化した環境や経済などの状況。人間が生き延びるためには抽象世界が必要なのだ。 動物の本能は、自分が生き残るために、他を切り捨てようとする。人間は、それを理性でコントロールしてきた。そして今は、理性と本能が共犯者になった。誰にも止められない。現実世界はきっと、本質的な部分で切り捨てられる。 でも、それでいいのか。 こういうことをいう人は偽善者として罵られる。 でも、それでいいのか。 今、現実(のはずの)世界の、僕らの、何らかの痕跡を留めるべきではないのか。抽象の世界では考えられない醜いものを見出すべきではないか。 ただのノスタルジーかもしれないが、僕は、まだこの現実世界のことが好きでたまらない。 ■
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by matsumo54
| 2007-11-15 18:29
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